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カーナビを使ってると、道を覚えない


指示の出し過ぎは、選手の判断力を奪う!


 先週商工会へ行くつもりで車に乗り、まだ引っ越して来てから間もなくまだあまり土地勘がない昭島市ではあるものの『もうある程度慣れたし、ナビをつけないでも行けるだろ』と思い、カーナビなしで走り出しました。

 十数分後、なんと市役所に到着しました。商工会と市役所の住所(位置)をきちんと区別できていないことに、本人(私)もびっくり。

 市役所の前を通過した際にカーナビで「商工会」をセットし、今度こそはと走り出しました。目的地に着くまでに思いました『カーナビに頼っていると、道を覚えないな。今は約束があり、急いで行かなければならないからナビをつけたけど、これからは時々自分の頭だけで運転しないと、昭島の道を覚えないな』と。
 そして、これはサッカーの指導においても同じだと思いました。試合中にコーチが自チームへ掛ける指示の声、もちろん『良かれ』と思って逐次適切な言葉を投げ掛けているのは紛れもない事実ですが、耳を覆いたくなるケースがあるのも、これまた事実です。細かい指示が試合中、ひっきりなしに続いている光景を指しています。

 試合中のプレーが流れている中、指示や注意点をチームへ与えるのは「シンクロしたインフォーメーション」です。試合前に行うチームミーティングで話すのが、「事前のインフォメーション」、試合後に試合を振り返ってチームを前に話すのが「事後のインフォーメーション」。それぞれに目的があり、自ずと内容も違ってきます。

 「シンクロしたインフォーメーション」をまったく行ってはいけないとは思いませんが、過度に行われると弊害が出てしまいます。つまり、選手たちが考えなくなってしまうことです。

 先に例として書いた私の体験が、すべてを物語っています。カーナビが「右へ」、「左へ」と言っていることに従っている間、私(運転者)は道を覚えません。曲がる角の目標物すら目に留めず、ただひたすらナビの指示に従って運転しているだけだからです。それでも目的地に着くわけですから、(とりあえず)問題はないということなってしまいます。
 サッカーのチームにおいても、これと同じ現象で試合を行っているチームに遭遇することが、よくあります。これでは、選手たちがサッカーを覚えないのは明らかです。選手たちは判断要素と判断基準を持っていないので、何となくプレーしています。つまり、何となく判断しているわけです。それの連続が、サッカーだと思い込んでいるわけです。
 「サッカーとは考えること」であると思います。自動車の運転に例えれば、信号で右折する際、信号が青になったら前へ出る。しかし、対向車の直進する車に気をつけて、ぶつかられない所まで出る(大概は停止線がアスファルトに書かれている)。対向車が切れたら右折を開始できるが、同時にその奥の歩行者の有無を確認しておかなければいけない。対向車が切れたからといって単純に右折したところ、歩行者が居て横断歩道の手前で止まると、直進車にぶつかられそうになった経験を持っている方も少なくないのではないでしょうか?

 これらの判断要素と判断基準を頭の中で演算し、シチュエーションにあった解を求めていくのがサッカーです。選手自身が、自分で式を立てられるようになることも大切です。

 話は戻りますが、試合中に指導者がチームへ過度に指示を与え続けていると、選手たち自身がこの判断要素を見つけ出すことと、判断基準に従いシチュエーションに即した決断を行うことができなくなってしまいます。つまり、考えること、判断することを指導者が選手たちから奪ってしまっていることになります。

 この罪は大きいです。なぜならサッカーの醍醐味は、まさにこの考えること、判断すること、だからです。フィールドに立つ選手たちが自分たちで考え、結論を出し行動に移し、そしてそれが成功を収めたとき、人はやり甲斐を感じ『サッカーやってて、楽しい』と思うからです。


ドイツの選手たちは、なかなかうまくならない!


 私は98年にドイツへ行き、幸運なことにすぐに小学校5、6年生のチームを持たせてもらいました。一番最初に感じたのは、『選手たちがなかなか上達せず、なんでこんなにパフォーマンスが向上しないのだろう?』ということでした。

 一時帰国した際に日本の子供たちを指導してみると、本当にそれは事実であり、とても不思議に思えました。なぜなら、代表で比較すると、ドイツの方が断然上だからです。

 何年かドイツで暮らすうちに、この疑問が徐々に解消されました。ドイツ人の子供たちがなかなかうまくならないのは、それぞれが自分でプレーの判断をしているからであることがわかってきました。つまり自分で判断要素を探し、見つけ出す。判断基準をいろいろ試し、ベストな解を見つける。これは個人主義である、社会的背景も影響を与えていると思われます。

 話は脱線しますが、ドイツでは10歳のときに、自分の将来像を決め、そこへ到達するための学校を選びます。日本で言う小学校は4年制です。その小学校を卒業すると、もうそれぞれが別々の道を歩んでいきます。大学を目指す人はギムナジウムへ、手に職を付けたい人は実科学校へ、専門単科大学へ行きたい人は基礎学校へと進んでいきます。

 学校制度一つとっても、ドイツでは小学校へ入学してからたったの4年で、人生における一つの大きな分岐点に立ち、未来を見据えた判断をしなければなりません。そのための4年間の中の、1日1日ということになります。

 

 日本へ一時帰国した際には必ず何処かからお声を掛けてもらえ、子供たちの指導をさせてもらいました。その経験などを通して、ドイツと日本を比較してわかったのは、「日本の選手たちは、あまり考えていない」ということでした。どういうことかと言うと(書くと)、「判断要素がどれとどれか?理解もしていないし、判断基準がどんなものであるか?もわからずに、プレーしている」ということです。

 日本の子供たちに、まったく同じ練習を2週に渡って行ったことがあります。1週間後に同じ練習を行った際、練習の最初に見せた子供たちのプレー振りは、1週間前の練習の始まりとまったく同じでした。つまり、「進歩なし」ということでした。

 

 このことはつまり、日本の子供たちは車の運転に例えると、仮に対向車が来るかどうかは見ていたとしても歩行者までは目が届かず、歩行者が渡っているにもかかわらず止まらずに突き進んでしまう、危ない運転をしていることと表現できます。

 


言葉で表現してもらい、初めて理解度を確認できる


 判断要素を自分で見つけ出し、判断基準に従い、シチュエーションにマッチしたプレーを選択できる選手を育てていかなければ、世界には追いつけません。

 日本人の特性の一つは、「俊敏さ」です。しかし俊敏が故に、そのことが仇となっているかも知れません。間違った判断のプレーをしても、それを補ってしまうことができ、「総合的には間違ってはいない」に行き着くことができるため、根本の問題と向き合っていないことが多いと感じます。

 

 子供たちの指導においては、選手たちと十分にコミュニケーションを取りながら、その試合状況において最も適切なプレーができるようになるよう、気を配っていかなければならないと思います。

 選手たちに「何を見て、何がどうなったら、どうプレーするか」を言葉で表現してもらうことがとても大切だと感じます。対象がサッカーだけに、「体で表現できてしまえば、それでいい」という考えに陥り易いですが、本当に理解できているか?を確認するには人に教えたときにわかるといいます。人に教えることができるには、十分に理解していなければできないからです。

 人に教えるつもりで、プレーの分析を行ってもらう。どうしてそのプレーがベストだったのか?あるいは、どうしてそのプレーが良くなかったのか?このことを言葉を通じてコーチとコミュニケーションしていくことで、選手の中に正しいプレーと悪いプレーの違いがきちんと整理されて、保存(記憶)されていくと思います。