店主 坂本健二のドイツでの挑戦の記録 16年間の軌跡を時系列に沿って紐解いていく
アンケートに答えるのがことのほか好きな坂本は、少し眠い気持ちを抑えながらバッグの中からペンを探し出し、答えを記入していった。
「今回のツアーは、満足されましたか?どんな点が良かったと思いますか?」
「次に参加するとしたら、どんなことを期待されますか?」
などありきたりの質問が続く。そして最後に
「何でも構いませんので、感想などを自由に書いてください」
とあった。一旦は躊躇したものの、坂本は一気に書き始めた。「今回の研修旅行を経て、自分もドイツでサッカーの指導者ライセンスを取りたいと思います」と。
現地には既にサッカー指導者を目指し、指導者ライセンス取得に向けて勉強中の日本人が、講師を務めたドイツ人指導者ペーター・ケーニッヒの家に居候していた。
その日本人、小川秀樹は、まだ16歳という若さでドイツへ来て、生活していた。
今回の研修旅行中多くの時間で彼は通訳を引き受けてくれたが、資格取得を目指しているだけあり、その通訳は的確でまったく淀みのない素晴らしいものであった。講義や実技において、彼が日本語へ訳してくれた説明は、とてもわかりやすいものだった。
彼の素晴らしい通訳に惚れ惚れとした気持ちになると共に、坂本は『いつか俺も挑戦してみたいな』という思いがぼんやりと頭の中に浮かんでいた。
機内で書くことになったアンケート、別段そんな個人の志を書き込み公にする場所ではないことはわかっていたが、なぜか坂本は正直に書いてみたいと思った。
このツアーが実施されたのは1994年8月21日~29日、そう前年の1993年には「Jリーグ」が設立され、日本で初めてとなるサッカーのプロリーグが開幕していた。
このJリーグの存在は坂本にとって、とても大きなものだった。それはJリーグチェアマンの川淵三郎さんが説明した「設立の主旨」が、坂本のずっと頭にあったものとまったく同一のものだったからであった。「地域に根差したスポーツクラブを目指す」、それはかつてダイヤモンドサッカーというテレビ番組の中で、解説の岡野俊一郎さんが話していたこととまったく同じだった。
「ヨーロッパや南米には、地域スポーツクラブというものがあります。例えば、あるクラブのサッカーのトップチームがヨーロッパで優勝して、5000万円の賞金をもらったとします。そして翌年もまた優勝、2年で1億円を稼いだので、体育館を建てることにしてバスケットボールと卓球の部門を新たに立ち上げることにした。そんな感じで地域スポーツクラブは発展してきているんです」、そんな説明が放送されていた。当時の坂本は、まだ中学生だった。
『そんな地域スポーツクラブは、日本にも絶対に必要だ。いつかそれに関わることをやりたい』と強く誓っていた。
そう真剣に考えてはいたが、その頃の日本にはまだ「地域スポーツクラブ」の「地」の字もない時代。坂本の描いた夢は「夢は夢で終わるもの。ずっと思い描くけれども、おそらく一生実現することのないもの」という位置付けへといつしか変わっていた。
話を戻そう。Jリーグチェアマンの川淵さんと同じ志を持ちながらも、それに対して何の準備もしていなかったことに初めて気づいた坂本は、戸惑った。何しろサッカーのプロリーグなど立ち上がろうなどとは、誰もが想像していなかった。そしてさらに、それは地域スポーツクラブであり、地域に根差した活動をしていくことを目指すことなど。
『俺、何しよう?グラウンドキーパー?クラブのフロント?どれも、まったくやったことがない』、自分の夢に対して何も準備してこなかったことを思い知らされると共に、大いに後悔した。
後から思えば奇妙だが、ドイツへの旅行に参加する1年前、1993年に坂本はひょんなことをきっかけにして、小学生チームのサッカーの指導を始めていた。 つづく
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