店主 坂本健二のドイツでの挑戦の記録 16年間の軌跡を時系列に沿って紐解いていく
ドイツでの1週間の指導者のための研修ツアーへ参加した坂本だったが、そもそも坂本は指導者になるつもりはなかった。「なるつもりはなかった」と書くと少々意味が強過ぎるが、指導者として活動することは坂本の頭の中では、まったく予定されていない人生(事柄)だった。
どうして坂本がサッカーの指導を始めたのか?は、本人の意思や希望とはまったく関係のないところから降って湧いた。
課長さん「坂本さん?坂本さんって、昔サッカーやっていたって聞いたけど、本当?もしそうだったらさー、うちの息子たち二人とも小学生でサッカーをしてるんだけど、良かったら今度教えに来てもらえないかな?三鷹なんだけど」
日頃仕事でお世話になっているとある医療機器メーカーの課長さんからの職場での突然の打診だった。
いきなりの問いかけだったが、自分が勤める工業デザイン事務所(坂本は機械設計者)として1番のクライアントであったため、坂本は即答する。
坂本「はい、やってました。で、いつ行ったらいいですか?」
そう答えながら、その先に一体何が待ち受けているのか?まったくわかっていないことを、坂本自身もよくわかっていた。『サッカーは、確かに山雅サッカークラブ(松本市、北信越リーグ(3部リーグ)所属、現在の松本山雅FC)でやってきたけど、サッカーを教えるって、俺にできるのか?ま、いいか?相手は小学生だし、なんとかなるだろ?』としか考えていなかった。
気の早い課長さんは「よし、じゃ今度の土曜日に来てよ」との即断即決の結論を言い渡した。
坂本「わかりました。何時にどこへ行けばいいですか?」
やがて、練習が始まった。そしてそこには、坂本がこれまでに経験したことのない光景が広がり、正直意表を突かれた格好であり、至極驚いた。
選手たちが喜び、とても楽しそうにサッカーをしていたのだった。
それまでサッカーを教えた経験などない坂本にとって、小学生を指導することに自信などあるはずがなかった。何しろきっかけは単純に、仕事先でお世話になっている課長さんからのリクエストへ応えるため、小学校の校庭へとやってきただけのこと。
ある意味、それは接待のようなものだ。会社対会社の関係を崩さないようにしておこうという発想からの「Yes!」の即答でしかなかった。「サッカー、教えてあげてもらえない?」の問いかけに何かしらの自信や見込みがあったわけではなく、単に二つ返事で引き受けただけのことであった。
しかし、今坂本の目の前に広がる世界は、彼がそれまでに見たことも、体験したこともない世界だった。『こんなことで、こんなにも喜んでもらえることって、世の中にあったんだ』そう坂本は心底思っていた。
そしてそこへ、ふと当番の3人衆の姿も目に飛び込んできた。選手たちの後ろの方に、さっきのひそひそ話のお母さん方が入った。
なんと彼女たちも笑顔になっていた。サッカーを教えてもらって喜んでいる選手たち(子供たち)を見て、とても満足している様子で、3人とも笑っていた。
『ナンジャ、こりゃ?』まるで松田優作さんばりの台詞が、坂本の頭には浮かび上がり、また同時に疑問も湧いた。
『ちょっと待てよ。さっきは俺のこと、「ハゲ」って呼んでたじゃないか?その変わりようって、許される範囲なの?』と。
川淵さんが突如一気にぶち上げたJリーグ、その後100年構想も発表された。一方地域スポーツクラブに従事したい、何かの役に立ちたいと思っていたものの、何も準備していなかった坂本。その両者の溝をどう埋めればいいのか?それを知ってか、知らずか?坂本は、毎週土曜日のサッカーの練習を楽しみに過ごす日々を送った。
そして、指導者ライセンスをドイツで取得する夢も大きく膨らみ始めていった。 つづく
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