第3話【立志編】 ドイツへの足がかり


店主 坂本健二のドイツでの挑戦の記録 16年間の軌跡を時系列に沿って紐解いていく


ドイツでの指導者研修ツアーで講師を務めていたPeter König氏(右)、1週間の滞在を終え日本へ帰国する際に坂本たちが泊まっていたホテルのレセプションにて
ドイツでの指導者研修ツアーで講師を務めていたPeter König氏(右)、1週間の滞在を終え日本へ帰国する際に坂本たちが泊まっていたホテルのレセプションにて

  1993年にJリーグが立ち上がり、いきなりドイツにあるような地域スポーツクラブを目指す、これから日本全国で作っていくことが世の中へ打ち出された(少なくともサッカー界では)。そのこと自体は喜ぶべきことではあったものの、坂本自身にとってはそれに対して具体的に何をするのか?どう地域スポーツクラブと関わっていくのか?それまでに何も考えていなかった、まったく何も準備していなかったことがはっきりした瞬間でもあった。

 坂本は当時、日本国内においてサッカーの指導者ライセンスを取得し、順次ステップアップさせていた(地域C級スポーツ指導員)が、「これ以上上位のライセンスへ挑戦するには参加者リストに名前を連ねるだけの実績やネームバリューのあるポジション(所属先)がなければ難しい」という噂も耳に入って来ていた。

 

 ドイツでの指導者研修ツアーからの帰りの便で配られたアンケートに「自分も指導者ライセンスをドイツで取得したい」と書いた坂本は、決してあてがあったわけではなかったが、『本当にそうできたら』と思って書いていた。

 

 「ドイツへ渡り、ある程度の期間住むにはどうしたらいいのか?」まったく何から始めたらいいのかすら、当時の坂本にはわかっていなかった。とりあえずドイツへの道筋を知っていると言えば、映像制作会社が執り行った94年の指導者研修ツアーをオーガナイズした通称「独逸屋」と呼ばれる人、そしてドイツ側ではその研修における講師を引き受けていたドイツ人、ペーター・ケーニッヒ(上の写真を参照)だけだった。


ドイツサッカー留学の先輩 小川秀樹さん(左)
1994年の指導者研修ツアーでドイツ南部にあるイッフェルドルフのホテルに宿泊し、そこを拠点としてあちこちを回った。
その際に通訳をしてくれたのが、小川秀樹さん。上述のケーニッヒ家に居候し、指導者ライセンス取得を目指して勉強していた。彼自身プレーも上手で、FC Bayern München U19のセレクションに受かっていたにもかかわらず、指導者の道を歩むため断ったという逸話を持つ人物

 ドイツへの道筋を探し、坂本はまず独逸屋の門を叩くことにした。ちょうどその日は坂本の誕生日、35歳になった日であった。ドイツへ一緒に行ったメンバー数人と一緒に、吉祥寺の居酒屋へ集まった。他の参加者が前の年の指導者研修ツアーの思い出話を語る中、坂本だけはドイツ留学への熱い思いを独逸屋へ伝え、その可能性を聞いた。
 独逸屋からの返答は、残念ながら「No!」であった。「坂本さんは日本でできることがあり、それをした方がいい」という断りの説明だった。
 断られた理由は理解できなかったが、これ以上熱弁をふるってもドイツへの扉が開くわけでもないことを坂本は悟っていた。

ドイツ視察研修旅行のハイライト、TSV イッフェルドルフ O32との国際親善試合
坂本は最前列左から2人目。ギュンター・ビール(黒いシャツ)はこの日主審を務めたが、のちに坂本が結婚する際の保証人となった。ちなみに坂本と誕生日が同じ(年は異なる)

 ドイツへ行くためのいちるの望みは、あっという間もなく、弾けて消えた。
 残る道は、ケーニッヒさんだけ。しかしこれには、難題が並ぶ。ドイツ語での交渉となることと、日本とドイツの8時間の時差がある中で電話という手段で伝えなければならないことだった。
 『なんでメールじゃないの?』と読者の方達は今思われていることと思うが、この当時(1995年)は、まだメールは存在していなかった。
 ドイツ語を坂本は学生時代、高専の授業で3年間リーダーを取っていた。しかしながら45分の授業が、週2回あっただけのことである。
 それでも何とかドイツへ行きたい気持ちに揺り動かされ、勇気をふり絞ってドイツへ電話をかけた。
 電話口に出たのはあいにく、ケーニッヒさんの奥さんヘルガだった。最初から、想定外。自分の名前を述べたら、ドイツ留学をしたいことを訴える準備をしていた坂本にとって、決死のドイツ語での交渉はのっけから予想外の展開から始まった。
 戸惑っていると、短い沈黙が入ってしまった。するとヘルガが「ヨシ?」と、当時イッフェルドルフに住んでいた、他の日本人と勘違いされた。「いや、健二です」と返しても、ヘルガは坂本のことを知らないので、誰だかは認識できない。

ブンデスリーガ第2節 TSV 1860 München 0対2 VfB Stuttgart、94年の指導者研修ツアーの中でオリンピックスタジアムで観戦、シュトゥットゥガルトでは翌年からジュビロ磐田で活躍したブラジル人のドゥンガもプレーしていた
ブンデスリーガ第2節 TSV 1860 München 0対2 VfB Stuttgart、94年の指導者研修ツアーの中でオリンピックスタジアムで観戦、シュトゥットゥガルトでは翌年からジュビロ磐田で活躍したブラジル人のドゥンガもプレーしていた

 自己紹介の説明はまったく十分ではないが、なんとか旦那さんのペーターへと取り次いでもらった。正直この不意打ちを食らったような数秒間のやり取りだけで、もう坂本は十分に疲れていた。
 坂本がペーターへ電話したとき、奥さんが電話に出るだけでなく、息子のフローリアンが出ることもあった。そしてペーターが不在だと「パパに何か伝言があるなら、伝えるよ」と言ってくれるのだが、その優しい言葉に答えるのも、ドイツ語で文章を構成することは本当に一苦労だった。
 そんなこんなだが、その後何度も電話でペーターと話し、熱意が通じたのか?有難いことに坂本のドイツ留学を手伝ってくれることになった。
 ペーターはなんとホームステイ先の家族を、坂本のために用意してくれた。それはとても有難いことだったが、ドイツでの滞在費などを詰めていくと、資金が足りないという問題が浮上していた。
 折角ホームステイ先を見つけてもらっていたにもかかわらず、残念ながら坂本はそれを断らざるを得なかった。
 その旨をペーターへ伝えると「断るのはいいが、それにより私の信用が落ちてしまうので、2度としないでもらいたい」と返され、坂本は申し訳ないと思うと共に意気消沈した。
 数年後何とかドイツでの滞在費を工面できそうになったとき、今度はまた別の問題が発生した。坂本にとって、まったく想定外のペーターの予定が耳へ飛び込んできた。
 なんと「ペーターが日本へ来る」というのだ。              つづく