第11話【風雲編】ミュンヘンの語学学校 文法指導の達人


店主 坂本健二のドイツでの挑戦の記録 16年間の軌跡を時系列に沿って紐解いていく


ミュンヘンの語学学校で坂本(左端)のクラスを受け持ったフシュカ先生(写真中央)は、ミュンヘンで一番文法の説明が抜群に上手な先生であり、また無類のサッカー狂でもあった
ミュンヘンの語学学校で坂本(左端)のクラスを受け持ったフシュカ先生(写真中央)は、ミュンヘンで一番文法の説明が抜群に上手な先生であり、また無類のサッカー狂でもあった

語学学校の先生がサッカー狂?


 1998年6月に坂本はドイツへ渡り、9月から小学生5、6年生のサッカーチームを任された。その順調過ぎるとも言える環境の中で一番問題となったのは、何と言っても「言葉の問題」、そうドイツ語の能力だった。
 そんな中1998年8月4日から、語学学校「Deutschcolleg Haeberle」へ通い始めた。費用が安いとケーニッヒさんが勧めてくれた学校は、ミュンヘン中央駅から地下鉄で3つ目の駅を降りたところにあった。坂本は一番下から二つ目のクラスである「基礎コース2」へ申し込み、そのクラスを受け持ったのがフシュカ先生(上の写真で中央、坂本は一番左)だった。
 フシュカ先生はそれ以来担当するクラスを毎月一つ持ち上がったため、坂本とは次の基礎コース3、基礎コース4、中級コース1、中級コース2、中級コース3と、結局半年間ずっとフシュカ先生が、いつも坂本の参加するクラスの黒板の前に立っているという幸運に恵まれた。
 何が幸運であったのか?それは、二つ存在する。一つ目は、彼もサッカーが大好きで、ある意味マニアックな人であったこと。授業中にサッカーの「サ」の字でも出ようものなら、そこからサッカーの話がとうとうと続いてしまうサッカーオタクだった。
 ある日サッカー用語集を特別に作ってきてくれて、休み時間に坂本へ渡し、詳しく説明を加えてくれた。サッカー用語ですら、ドイツ語での表現方法を知らなかった、当時の坂本にとってとても貴重で有難い資料だった。

しかも文法指導の達人?


 そして、二つ目は彼が文法を教える名人であったこと。2015年10月に坂本は日本へ帰国したが、その際に坂本はGoethe Institut(ドイツで最初に通った語学学校、ミュンヘンに本社がある)の試験を受けた。そしてその試験のための準備するクラスがあり、2度ほどミュンヘンまで通った。その際の講師が2回目の授業の最後に「もし皆さんが文法でお困りであったら、それに持ってこいの先生がミュンヘンに居ます」と言いながら黒板に書いた名前が

 

「Gerald Huschka(ゲラルト・フシュカ)」

 

だった。坂本はびっくりしたが、しかしながらその通りだとも思った。ドイツを去る前に、自分の幸運な人との出会いを確認した瞬間でもあった。

 ちなみに坂本は「B2」という6段階あるうちの上から3番目の試験に見事合格した。

 

 フシュカ先生は漫画を書くのが得意で、ややこしい文法をわかりやすくまとめたものを、いつも授業で配ってくれた。それは漫画を使って表現されていて、おもしろくおかしく勉強できるように工夫して作られていた。まさに最近TBSドラマ「ドラゴン桜」の桜木先生の台詞にもあった「楽しい努力」を誘発してもらえる資料だった。

 

 6カ月の間語学学校の先生はずっとフシュカ先生だったと書いたが、それはつまり坂本が毎月の試験で十分な成績を残し、常に次の月に一つ上のクラスへ進級し続けたことを意味している。

 そんな坂本が、授業中にこだわってやっていたことがある。それは文法を習った後、よく作文の課題が続いて出されたが、坂本は必ずジョークを交えた文章に仕上げ、ドイツ人の笑いのツボを探した(実情としては、フシュカ先生はドイツ人だが、他の生徒は皆外国人。もっとも坂本自身も外国人)。

 

 例えば、嵐の後のような町の風景を渡され、この絵について説明する文章を作りなさいと設問されれば、「きっと今しがた、ゴジラがとてつもないスピードで走り去ったのだろう」という文章をまとめて、発表した。

 

 他の生徒が普通に「台風が駆け抜けて行った後だろう」、「きっと竜巻が発生したのであろう」という文章ばかりの中、坂本の奇異な文章はクラスのみんなから好まれた。毎回毎回そんなおもしろい文章を作文することで、坂本は生徒全員と打ち解け、クラスの雰囲気もいつも楽しさに満ち溢れていた。

試合の様子を報じる地方新聞の記事を集めたもの。1998年10月6日、坂本はTSVイッフェルドルフのホームで行われた2軍の試合に先発出場(緑のマーカー)し、見事に…………(ピンクのマーカー)
試合の様子を報じる地方新聞の記事を集めたもの。1998年10月6日、坂本はTSVイッフェルドルフのホームで行われた2軍の試合に先発出場(緑のマーカー)し、見事に…………(ピンクのマーカー)

久々の90分の試合


 さてドイツ語に関する坂本を囲む環境は、滞在した16年間常に変化し続け、総じて表現するならば「いつも待ったなし」の状態であった。詳しいことは追々、この物語の中で触れていくこととする。

 

 ドイツでのこの頃(初年度?)の坂本の暮らしぶりとして触れなければならないのは、「サッカー留学」なのだから坂本自身がプレーするサッカーはどうしていたのだろう、ということだろう。

 

 小学生チームの指導を監督として始めたクラブTSVイッフェルドルフにおいて、自身の選手生活も始めた。坂本は山雅SC以来、久しぶりの選手証を受け取った。38歳の坂本はO32チームの試合に出場していたが、往々にしてリザーブ・チームで人数が不足することがあり、時々応援要員として借り出された。

 

 上の写真で緑のラインマーカーを引いた所でこの2軍チームの試合に先発フル出場していたことが、さらにピンク色のマーカーの所でチーム3点目を入れていたことがわかる。

 

 この試合は坂本にとって、少し思い出深い試合となった。


日本人選手はみんなボランチ?


 

 通常ドイツでは、同じ日に同じクラブ同士の1軍と2軍が続けて対決するように試合日が割り当てられる。

 この上の写真の節であればいずれもTSVイッフェルドルフがホームで、DJKヴァルトラムの2軍が先に前座として試合を行い、その後1軍が試合を行う。ところがこのときは試合日直前に雨が続いたため、常識を覆し、芝の状態を考慮して1軍が先に試合を行った。

 

 つまり坂本がプレーしたのは2軍チームの試合なので、2試合の後の方の試合であり、その日DJKヴァルトラムの1軍に3対0で勝利したTSVイッフェルドルフの1軍の選手たちは皆、シャワーを浴びるや否や勝利の美酒に酔い、各々が片手にビールグラスを持って2軍の試合を談笑しながら観ていた。

 

 上の写真の資料では坂本の名前がメンバーの最後に記載されているが、決してFWとしてプレーしていたわけではない。事実は、紛れもなくボランチとして出場していた。

 話は脱線するが、ほとんどの日本人がドイツのクラブに所属してサッカーをプレーすると、ほぼ全員に与えられるポジションが、このボランチである。

 

 なぜそうなるのか?それは日本人が広い視野とバランス感覚に秀でているため、守備の場面において数的不利な状況であったにもかかわらず、いつのまにか数的同数、あるいは数的有利な状況に持ち込み、そしてボールを奪い、すぐさま的確な見方へパスをつなげる能力が高いからだ。

 

 さて、話を試合へ戻そう。ボランチとして坂本はプレーしていたが、左サイドで始まった攻撃から突破する可能性を察知し、後方からペナルティエリアへと侵入した。左サイドでボールを持つ選手と目が合った。彼は左足を振り、ボールをゴール前へ送った。     つづく